Saturday, December 30, 2006

外国語と技術移転

あるプロジェクト評価の仕事をしたところ、外国語の能力はそこそこにあるのだが、話が全く通じない人についての苦情が聞こえた。事情を聞いてみると、彼の英語能力は「かなり」のレベルに達しているが、「何を言いたいのかさっぱり分からない」という苦情だった。
 従業員を雇用するときに、候補者の英語能力を評価することが多いが、最近ではTOEICとか、英検とかを使うようだ。でも、これは本当にコミュニケーション能力を測っているのだろうか?日本でも、日本語は皆話せるが「何を言っているのかよく分からない奴」とか、「言語明瞭、意味不明」。はたまた、「話の見えない」奴が沢山いる。
 まして母国語ではないのだから英語能力と会話の質はあまりリンクしないということに気づくべきだ。

Friday, December 29, 2006

年賀状

 会社設立後初めての年末は、年賀状の準備で忙しい。

 これまでお付き合いを頂いた方々の名簿を整理して、年賀状の宛名を打ち込む作業をしている。約1000枚の名刺から名簿作りをしている。営業案内という側面もあるので出来るだけ多くの方々に送りたい。一方で、異動などで現在の職場が分からない方々も多々ある。

 住所不明・異動などで、お届けできない方々、本当に申し訳ありません。

Wednesday, December 27, 2006

無知の知(自覚せる無能)

 哲学者ソクラテスは「真の知に至る出発点は己の無知を自覚することにある」と言った。
自分自身が無知であることを知っている人間は、自分自身が無知であることを知らない人間より賢い。真の知への探求は、まず自分が無知であることを知ることから始まる。

 これを別のことばで表現すると、「自覚せる無能」という。

無知には以下の3種類が有る。
・無知の無知(自覚せぬ無能)
・知の無知 (自覚せる有能)
・無知の知 (自覚せる無能)

 これを図にまとめると以下のようになる。
 



 「無知の無知」というのは、自分自身は無知であってその無知であることに気づかず平然としていられる状態のこと。
 
 「知の無知」というのは、自分自身は何でも知っていると思っているが、その知識に関してなんの信憑性もないこと。(知ったかぶりのこと)

 「無知の知」は、自分自身は無知で有ると言うことに気が付いている状態を指す。

 最後に、「知の知」とは、自らが能力があることに気づいている状態のことを指す。

やってみて…

「やってみて、言って聞かせてさせてみて、誉めてやらねば人は動かず」

山本五十六が言ったことばだそうです。

 同じような表現は他でも見ることができます。人間は体験から学ぶのが一番でしかもそのプロセスを支援することの大切さを表現していると思います。

 こういうのもあります。



不聞不若聞之,聞之不若見之,見之不若知之,知之不若行之。
  「聞かざるはこれを聞くに若かず、これを聞くはこれを見るに若かず、
これを見るはこれを知るに若かず、これを知るはこれを行うに若かず」
"Tell me, I will forget. Show me, I will remember.
Involve me, I will understand."

なぜ今ファシリテーションか

 我々が従事する仕事のほとんどが(業種が異なるにしても)小規模な集団活動(小グループによる活動)によって実施されている。営業など比較的個人プレーの側面が多い業種でも、実際には受注〜契約〜発送〜入金確認〜商品企画や生産現場へのフィードバックなど、個人で行う業務と思われていても組織的に活動しているケースが多いのではないだろうか。
 ファシリテーション(facilitation)は、中立的な立場から支援を行うこと、またはそのための技術であると考えられている。また、グループ活動が円滑に行われるように、中立的な立場から支援すること、またはそのための技術のことをさす。facilitationの語幹であるfacilという語は、(物事を)容易にする、円滑にする、促進することを意味して用いられることが多い。そのため我が国では特に、ファシリテーション・スキルを、会議の促進技法として理解されている場合が多いのではないだろうか。そのため、「会議が円滑に運営されるよう進行を行うこと、働きかけること」と言う意味で使われる場合が多い。しかし、ファシリテーションが意味するところは、この会議促進の例よりも広く、むしろ「ビジネス・ファシリテーション」とか「プロジェクト・ファシリテーション」のように、グループによって行われている業務の目標達成のための、問題解決、合意形成、あるいは目標に達するために必要となる、グループによる創造・変革・学習プロセスを支援・促進することと考えるべきであろう。会議は、上にあげたような創造・変革・学習プロセスを集団で実現するための「場」として、実施されるのであって、会議ファシリテーションはそのプロセスを支援する技術の一つにすぎない。

そもそも何でこれを書き始めたか

 仕事を20年以上やっていると、さすがにこれを通じて得ることができた知識を体系化しておいたほうが良いと思うのである。私にとっては職業生活のなかで舵を大きく切ったときが何回かある。今回もその大きな舵取りのタイミングなのだ。

 人材育成トレーニングについて日本語で書かれた著作があまり見つけることができないので、少し手慰みをしたいと思う。

目的の明確化

1.目的と目標

「目的」と「目標」の2つの意味は非常に近いが異なる。
「目的」とは、実現しようとしてめざす事柄。めざす所。めあて。「目的」は、抽象的で長期にわたる目あてであり、内容に重点を置いて使う。用例として「人生の目的を立身出世に置く」として用いられる。

一方、「目標」は、目ざす地点・数値・数量などに重点があり、より具体的である。たとえば、「目標は前方三〇〇〇メートルの丘の上」「今週の売り上げ目標」のようにより具体的である。

つまり、以下のような使い方が正しい。

「目的はヨーロッパの開放。目標はパリ奪還。」

2.目的の明らかでない教育・トレーニング

いまさらではあるが、トレーニング・教育を行う上で目的を持つことは非常に重要である。目的を持っているから目標が明確になる。目的を持って行動することは、それに関わる問題意識が高まる。学ぶ機会が増える。さまざまな機会で、新しい知識を得ることができる。結果として自己の成長につなぐことができる。

例えば、身体運動を例にとると、目的地がはっきりしていることは非常に重要である。なぜなら、目的がはっきりしていることによって、身体を構成する全ての単位(身体の部位)が同じ方向を向くことができる。身体が右に進むときは、足は右に向かう。一方で上体は左に進むと倒れる。右に進むためには、使用可能な資源の全てが同じ目的のために使われることが必要。

3.「目的」「目標」の明確化の重要性
「目的」「目標」は、明確に分かりやすい記述がなされているかどうかは重要である。

「目的」「目標」を記述する文は、受講者の立場で記載されているかどうか?他者が検証できる行動の動詞で表現されているかどうか。例えば、「分かる」「理解する」は内面的なもので、他者が外部から理解しがたい。そこで、「説明することができる」「議論することができる」「XX個取り上げ、それらについて詳細に説明することができる。」「3個とりあげ論述することができる」の法が正しい。


4.「長期的展望」 の有無
 目的を構成する目標は複数ある。それらは、より高い戦略目的の一部に位置付けられているかどうか?